教会長の言葉

「華」だより

2021.8.14
 『妙法』悲しみと仏性開顕

 人間と自然とがひとつ、人間と仏さまとがひとつということを、法華経では『妙法』と鳩摩羅什が訳しました。"妙"とは[隠された本質]の意味があるようです。"諸法実相"と解することもできますね。
 『常に欲の無い者が妙(本質)を観る』と言い、欲のある者は事物の末端の現象しか見ることができないと続きます。少欲知足、今ある足元の幸せに手を合わせ、心を寄せる生き方につながります。
 法華経の寿量品に『常懐悲感 心遂醒悟(じょうえひかん しんすいしょうご)という句があります。深いかなしみを胸の奥深く秘めていると、その悲しみに心が洗われて、ついに悟りに至るという意味です。
『良医の喩え』で、父の死を知った病いの子らが、ようやく父の置いていった"薬"の味い美きを知って服するシーン(三部経278ページ)に記された名句です。
 終戦の8月、亡きご先祖さまを偲ぶお盆を迎えて、胸の奥深くに去来する悲しみと祈りは、同時に、私たちが仏性に気付き"まことの生き方"に目醒めるご縁でありましょう。
 誰もが父母なくして、この世に誕生し、生かされることはありません。それはまた、"常に私たちを見守る慈悲のまなざしがある"ことと一つのように思えてきます。
 昨日、奈良岡さんから教会役員に写真を送信いただきました。御宝前横に吊るされた千羽鶴と奈良岡さんの微笑みを拝見し、不思議と"千羽の鶴が羽ばたくイメージ"が浮かびます。
 どんな時でも、仏さまは、私たちが"良薬"を服し、仏性を開顕して、異体同心となって前進することを願っておられることを大切にしてまいりたいと思います。 合掌


2021.8.20
 『手探りの中で 流されない』

 富山県のコロナ禍対応がステージ3となり、富山市にまん延防止の指定が発令されて、教会もしばらく参拝自粛となると、気分は落ち込みます。
 こうした状況を受け止めて、9月の"佼成"会長先生ご法話をかみしめ次のように標語にしてみました。            

うろたえて 八つ当たり
がまんに もがき 喘ぐ いま
相思い(あいおもい) 互いを結ぶ
心の虹🌈をかけよう

 私が高岡教会着任で初めて参拝するという朝、北陸支教区高橋教務員さん運転のワゴンで関戸支教区長さんと共に高岡駅脇の駐車場から出発しました。ふと空を見上げると"二重の虹"が架かっていたのです。"二重の虹"は、『幸運の虹』とも言われます。その時は単純に"吉祥だ!嬉しいな”と受け止めていました。
 コロナ禍や度重なる自然の猛威、加えて国内外の世情が不安定な、いま、放っておくと、私たちの気持ちは滅入るばかりです。
 こんな時こそ、会長先生が示される謙虚に柔軟に[善き縁を結ぶ]繰り返しが、私たちの心をリセットし、前進させるのだと感じました。それはまた、人と人の間に"希望の虹"を架けるイメージにつながってきました。
 着任時のあの虹は、『吉祥を待つのではなく、善き縁の積み重ねで、不安をもつ人と人との架け橋になる』ことを示唆するものとなりました。
 今こそ、ファイト❗️です。 合掌


2021.8.21
 ファイトその①  『迷わず、縁起の道理を活かそう』

 40年近く前、私が学林生の時に、開祖さまのお徳で、講師のお一人として、駒沢大学総長などを歴任された水野弘元先生に、先生ご自身の著書を用いて仏教の基礎知識を学びました。
 当時は、水野先生の説かれるほんの一部表面の理解だったと思います。しかし、40年の時を経て、当時説いていただいた中身が心に染みるようになり、少しずつ"かみしめ"られるようになってきたかなと感じます。
 例えば[縁起]の活用。
善因善果、悪因悪果の因果関係を説く業報縁起説は、因果という"時間軸"から捉えたものです。しかし、生じている現象は、縦の時間経過によるものだけでなく、周囲との横の関係もあり、さらには、後のものが前のものに関係し、また、前後左右に様々な関係をもちます。
 時間経過で見れば、『父と母の因縁の結果として子である私が生まれた』となりますが、法華経の縁起説では、『私の魂の志(志願)が因で、私の志にふさわしい両親が縁となって、私が生まれた』と、後のものが前のものに関係する展開となります。
 さらには、縁起が説かれる目的は、起きている現象の説明の為ではなく、『如何にして苦悩を脱して安心安楽調和の涅槃の境地に達するか!』であります。水野先生は、『涅槃に対してマイナスに向かうものを凡夫の状態と言い、プラスに向かって苦悩を滅することが"縁起が説かれる目的"』と示してくださいました。
 現在、コロナ禍を始めとした私たちが直面している諸現象を、"縁起"で観るとすれば- – 正しい生き方に達していない"凡夫–無明"の私たち現代人が真の目覚めによって生きていく"神仏の慈悲の試練"と受け止められます。
 私たちが生きていく中で、求めるべき真に価値あるものは何か❣️低い価値を本物と間違えていないか?
 私たちは真剣に"プラスの方向にはたらく正しい道理"『縁起の教え』を信解し、ひとりでも多くの方にお伝えして、毎日の生活の中で実践することが、いま、最も期待される大事ではないでしょうか。
 開祖さまが求めた道を、僧伽の皆さまと共に迷わず歩んでまいりたいと思います。 合掌


2021.8.23
 ファイトその②  『精神論を超える習慣力』

  水野先生は、仏教は命令や強制ではなく、義務観念によるものでもないと説き、『やむにやまれぬもの、無為自然に行なわれるものであり、そうしないではおれないもの』と強調くださいました。
   会長先生は、これを『無我の実践』と表現されました。
 例えば、"諸(もろもろ)の悪をなさず、衆(おお)くの善を奉行する(ぶぎょう=仏の教えを奉じ、それを行なうこと)という教えも、人が見ていようといまいと、行なうべきことを自らの意思で必ず行なうことです。
 しかし、人はそう簡単に、いつも実行できるものでもありませんね。仏教では、善悪の行為を[業(ごう)]と表現します。これには3つの要素があります。
a.善悪の意思、b.意思の後におこる実際行動、c.意思や行動の習慣的潜在余力"習慣力"です。ここで大事にしたいのは、cの"習慣力"であります。
 abの意思や行動は、それらが生じ実行されれば、消えて無くなることはなく、"因縁果報の[報]ですね"必ずその度ごとに"習慣力"となって、何らかの形でその人に残ります。俗に言う"クセ"となります。
 善い習慣なら安心ですが、例えば、一度ウソをつくと、その時は、良心の呵責(かしゃく)や周囲への恐れもありますが、表面上それが何度か成功すれば、ある意味平気になってしまうこともあります。これは、必要以上の飲食などにもあてはまりますので身体を壊してしまいかねませんね。
 そこで、善き習慣が大事だと決心し、『三つの実践』のように小さな積み重ねで良いので、継続して行います。
 私は現在、この『華だより』を続けることと併せて、8月19日から教会での9時のご供養で、21日間、陀羅尼をあげることにしました。これは、コロナ禍にあって、その感染収束を願うと同時に、日々の善き習慣力を養う"特効薬"みたいなものです。
 ファイト❣️と自分に言い聞かせています。皆さまは、どんな習慣を力にしたいですか? 合掌


2021.8.24
 ファイトその③ 『先に与えるから、与えられる』

  仏道の原則は"与えられたから与える"のではなく、『先に与えるから、与えられる』と説かれます。有名な『三尺箸の喩え』がありますね。1メートル以上の長い箸でご馳走を食べようとするのですが、地獄では皆が"自分だけ食べよう"と必死になり、他人のものまで横取りしようとしますが、口に運べずイライラし、争いとなり、ガリガリに痩せてしまうのです。
 ところが極楽では、長い箸でご馳走をはさむと"どうぞ"と言って、"先ず他人の口"にご馳走を運んであげます。そうして、お互いに感謝でご馳走を分かち合い、楽しく喜びながら食事が進むのです。
  昨日『無我の実践』にふれましたが、水野先生は、『自分と他人を同一視して、区別することなく、相互の利益のため、全体の利益のために行なうことである』と示し、さらに、『施しは、たんに施与することだけではなく、相手の立場を考え、相手の利益をもはかって行なうこと。これをもとになされるならば、商売でも、交渉でも、世間全般のこと全てが施しである』と教えてくださいました。
   開祖さまが示された"治生産業すべてが法華経の菩薩の精神で為されるならば、皆んなが幸せになれる"とのお言葉との一致です。
 正しい施の理解によって善進し、前進してまいりましょう。 合掌


2021.8.25
 『私たちには 翼がある』

 パラリンピックが開幕しました。We have wings『私たちには翼がある』がコンセプト。
逆風に立ち向かうパラアスリートのように"勇気を出して翼を広げることで、思わぬ場所に到達できる"を表します。
 また、パラのシンボルマーク、赤–青–緑の炎を組み合わせた曲線も、困難に挑戦する選手の躍動感を表現しています。
 立ち止まって考えてみると、パラアスリートに限らず、私たち人間は皆、逆風や困難と向き合いながら人生を歩んでいることに気づきます。
 ならば、私たちにとっての"翼"は、どこに見出せるでしょうか? また、どうすることで、その翼を広げることができるのでしょうか⁈
 幾多の困難に直面したであろうパラの選手が、笑顔で颯爽と登場する姿、共に力を合わせて生き、固有の翼を広げる姿から、理論を超えた"何か"を学びたいと思います。
 因みに、3色のマークは、心(スピリット)、肉体(ボディ)、魂(マインド)を表しているのだそうです。
合掌

2021.8.28
 "下がる修行"と"共生社会"

 先に紹介した故–水野弘元(こうげん)先生は、開祖さまと親交が深かった日本における仏教学の権威でありました。
 その水野先生が開祖さまに、『佼成会の"下がる修行"というのは、凄(すご)いね。あれは素晴らしいことだ』と仰られたことがあります。
 水野先生は、"下がる修行"の根底には、法華経の[常不軽菩薩の仏性礼拝行]があり、それが"下がる"という実践行として日常的に行なわれていることに感動を覚えられたようです。
 [すべての生きとし生けるものの"いのちの本質=仏性"を礼拝する]実践は、この度のオリンピックやパラリンピックでも強調される[多様な生き方の尊重➖障がいをもった方々も健常者も互いに支え合い自己実現する"共生社会"づくり]に通じるように思います。
 人生を直視すれば、老化や病気も"障がい"と受け止められます。私も歯が傷み、記憶力や体力も徐々に低下する現実と向き合っています。『すべての人が何らかの障がいと直面しながら生きていく現実』を正しく理解したいものです。
 "下がる"の反対には、思い上がる、驕慢、偉ぶるなどがあげられます。これでは、仲良く力を合わせるのは難しいでしょう。皆んな分かっている、でも中々出来ないのではないでしょうか⁉️
 謙虚に直向きに修行をする中で身につける"仏性礼拝の下がる姿勢"。パラアスリートとそれを支える人びとに習い、皆んなが支え合い共に生きていく社会をめざして、異体同心となって精進してまいりましょう。 合掌


2021.8.30
 『深く根づいた見方を変える』

 『夢ポッケ』が90袋できました。今日、外少年部長さん導師で感謝と祈りを込めたご供養をしてくださり、やがて海外で待つ子どもたちに届けられます。コロナ禍の中、私の予想を超えた夢ポッケの数量に胸が熱くなります。皆さまの"まごころ"に深く感謝を申し上げます。
 一方、パラ競技のトライアスロン男子車イスで佼成学園卒の木村潤平君(ひまわり福祉会)は、1時間4分50秒で6位という立派な成績を収めました。応援ありがとうございます。
練馬教会に関係するテニス男子ダブルスの荒井大輔君は、見事1回戦突破です。
 夢ポッケへの取り組みや、パラ競技アスリートの活躍に接して、あらためて、パラリンピックの父と言われるルードウィヒ-グッドマン博士の『失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ』という金言が心に響きます。
 これは、私たちに根づく『見方や考え方を変える』こと、仏教八正道の正見、正思に通じていることを、今はっきりと自覚しています。"わかっちゃいるけど、やめられない"➖このように定着してしまう見方、考え方を柔軟に謙虚に、"教え"に照らして変えていくこと。
 私たちは今、抜き差しならない地球的課題に直面しています。一人ひとりが日常の中で、真摯に見方考え方を変える努力が大事です。
 困難や悲しみを抱えた世界の子どもたちに夢ポッケを贈る優しさ、自他の限界を制限しない明るさ、家族や身近な人に注ぐ温かさなど➖さぁ、自分の可能性を引き出しましょう。 合掌


2021.8.31
 『永遠を意味する市松模様』

 東京オリンピック-パラリンピックの公式エンブレムのモチーフとなった"市松模様"。興味深いことに古墳時代の人物埴輪の袴(はかま)に、この市松模様が見られるそうです。
神社の石畳のように四角い柄なので"石畳み"と呼ばれたりもするようです。鬼滅の刃の竈門炭次郎が身につけていたので、子どもたちにも大人気ですね。
 色違いの四角い柄が連続することから、永遠や繁栄、子孫繁栄、事業拡大、商売繁盛、延命長寿などを意味し、縁起の良い模様とされています。
 日本人の感性は、この模様に惹きつけられる何かがあるのだろうと思います。私が想像するのは、山川草木を愛し、自然に親しみ畏敬の念を抱く感性であり、太陽と月の対比、男と女など陰陽のはたらきを大切にする感覚です。
 今の私たち現代人の立ち位置は、自然から遠ざかってしまったのではないか❓科学の発達が知らず知らずのうちに、人と自然との間に隔たり"境界"をつくっていないか❓
 日本人は特に、朝太陽に手を合わせていたように、自然との一体感が、自然の一部である人と人との一体感を育んできたように思われます。
 オリンピックを契機のひとりとして、自然と共にある人間社会のあり方を反省し、新たな創造をはかってまいりたいと思います。
 "持続可能な社会"を築くS DGsの取り組みが段々と熱を帯びています。信仰をもつ私たちは、"永遠の真理"を求め、真理に生かされて力強く精進してまいりましょう。 合掌

2021.9.3
 『真剣に 信じ 念じ 行じる 大事』

 私が小学生時代の記憶に、母が真冬なのに、朝4時半ぐらいに家から出かける後ろ姿があります。外は積雪があります。40分くらいかけて向かう先は"教会"でした。
 高校時代の夏休み、郡山教会の別居"白河支部"によく泊まらせてもらいました。支部長の母は、月の大部分が支部で泊まりがけの信仰生活だったので、少しでも傍にいたかったんだと思います。その間、毎日のお給仕、ご供養、法座、お導き、手取りに取り組む姿や、私は直接お役をするわけではないのですが、母が支部長として盂蘭盆会の戒名を幹部の皆さんと一生懸命に読み上げる姿 – -などなど。  
 今にして思えば、いつも真剣に信じ、念じ、行じる姿が私の記憶に深く刻まれているようです。しかも、面倒なこともたくさんあるだろうに、いつも"有難い、有難い"と言うのが自然体でした。
 母もまた、佼成会の先輩僧伽の皆さんから学んだことでしょう。そしてその究極の出発点は、開祖さまであり、脇祖さま(妙佼先生)です。仏教は世界宗教ですが、私たちにとっての仏教は、開祖さまと脇祖さまを通じて、その信仰姿勢が継承されたのだと思います。
 それはまた、日々の生活、働き方、人とのつながり方など私たちの"生き方全般"に甚大な影響を及ぼしています。表題の『真剣に 信じて、念じて、行じる』は、両祖の信仰姿勢、生き方の核心と言えるかも知れません。私は、両親のおかげさまで、こうした"生き方の姿勢"後ろ姿に出会えたことを、本当に幸せに感じ深く感謝をしています。
 時代やコロナ禍のような環境の変化に合わせて、教えを僧伽の修行や日常生活に活かすスタイルは"変化"を見せますが、本質となる心の姿勢は、"不変であり普遍"でありましょう。秋季のお彼岸を迎えるに際し、親孝行➖先祖供養➖菩薩行に自らの発心で異体同心となって真剣に取り組みたいと思います。必ずその後ろ姿を学ぶ人がおり、そして、自らが成長する現象も確実についてくると信じます。 合掌

2021.9.4
 ①『信じる』について
  負の感情を超えていく


 ニュース報道で伝えられているように、現在、アフガニスタンは大変混迷を深めています。
 こうした中、WCRP国際共同会長を長年務められ、現在名誉会長のお役をされている、ボスニア-ヘルツェゴビナのムスリム指導者 ムスタファ-セリッチ師がタリバンの指導者にあてて公開書簡を送られました。世界のムスリム界でも大きな影響力を持つ方です。
 このセリッチ師をWCRPの活動に全身全霊で、献身されるように導かれたのが会長先生でした。
 今日は皆さまに、ご本部から提供いただいた信頼に基づく会長先生とセリッチ師の経緯をお送りしました。どうぞ開いてご覧ください。 合掌

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