教会長の言葉

「華」だより

2021.9.19
  切り替える"とき"

 新型コロナ感染拡大 第5波に対応し、8月のお盆明けから教会参拝を基本は自粛体制とし、支部長さんお一人ずつの交代と少数の事務所スタッフ、そして私の留守番態勢としました。
 長引くコロナ禍にあって、私たちも含めて一般社会の多くの方々は気持ちも塞ぎがちになります。実際、地域社会の閉塞感だけでなく、会員の皆さまの難儀を聞かせていただいたり、自分自身の一念がやや不透明になりがちな中、教会9時のご供養にて、"陀羅尼"をあげようと決めました。
 仏さまの慈悲のメッセージを受け止めたい。そして、信者さんや地域社会の方々が少しでも健やかに前進できるよう9月14日までの教会自粛期間、至らぬ自分ですが導師として修養日を除く21日間、真剣に無心に念じさせていただきました。
 おかげさまで、この18日からは一定人数、健幸行や参拝ができる環境になっています。
 そして、私の一念が調(ととの)ってきたのです。陀羅尼をあげている期間、北陸支教区壮年と光祥さまとの結縁の方向性がはっきりとしてきました。婦人層の教会教務員が誕生しました。社会貢献の発心に基づく提案を頂戴しました。何より、教会役員の皆さまや主任さん方、会員の皆さまの難儀な中での努力精進が今まで以上に観じられるのです。
 これを機縁に、お一人お一人の道場での修行と家庭や地域社会での修行精進の進め方にもあまり迷わずに進めそうです。何故なら"諸仏が護念くださっている"ことをひしひしと感じられるのです。皆さまは、如何でしょうか⁉️ 合掌

2021.9.20
  そっくり真似る=ミラーリング

 脳内の神経結合は、一人の人間を作り上げる基盤と言われます。神経の結合があるおかげで、電気的、化学的な信号を送って通信ができ、私たちは周囲の世界を理解したり反応したりできます。学習と記憶の土台になっているのです。
 生まれてからの数年間、赤ちゃんは保育者(両親特に母親が主)と過ごす間、観察とそっくり真似をする模倣="ミラーリング"によって膨大な学習をしています。
 生後10週までに、ミラーリングは舌を出すというような単純な動作から、親が示す嬉しい表情や怒った表情を無意識のうちに模倣していきます。さらに、数年の間に親が発する言葉も、その感情を含めて共有していきます。このようにして脳内の神経経路が整っていきます。
 こうしたミラーリング(模倣)の能力は、信仰を身につける上でも大事であります。立正佼成会では、"お供修行"をさせていただく中で、人さまとのつながり方や日常生活でのより良い立ち居振る舞いなど、導きの親さんや先輩から多くのことを学びます。
 私たちには、どうしても長年の間に身についてしまった癖があり、様々な出来事や人さまとの出会いを、自分にとっての"快➖不快、損➖得、善➖悪で見てしまいがちです。そこに摩擦や矛盾が生じ"苦"を感じてしまうのです。
 私たちにとって信仰を養う最高のお手本は、開祖さま、会長先生です。だから、そのご法話やお姿に学びます。同時に、身近な信仰の先輩に張り付いて、その姿や立ち居振る舞いから学ぶこと、さらには、同じような体験をした僧伽の仲間がみ教えを実践して救われていく説法から学ぶことも大切にします。
 私たちに備わっているミラーリングの能力は"永遠"です。その能力を皆んなで助け合い、充分に活かしていきましょう。 合掌

2021.9.22
 
 今宵は"中秋の名月"を見逃しませんように – – – そして、願わくは多くの皆さまが"ゆったりと味わえますように"念じています。 
 "願いごと"が届くような気がしませんか?
 先程、私の携帯にシンセサイザー奏者キムシンさんのマネージャー山本さんからメールが届きました。コロナ禍の中久々に地元埼玉で11月にコンサートが開かれるという嬉しい報告です。
 そこで思いついたのが、キムシンさんのCDを聴きぼんやりと月見をするという"ブチ贅沢"です。ひとつ残念なのは、明日が定期検診なので"ちょっと一杯"はできません – – (^^;) 合掌

2021.9.28

 私たちは感情をコントロールできず、ついつい他人に当たってしまったり、何かのきっかけで孤独を強く感じてしまうことがあります。
 人も生物なので、生物学的な視点で見ると、他人に対して怒り💢を覚えてしまうのは、自分の生存を脅やかす敵に対応するためだそうです。
 また、孤独感は人と集団で生き延びてきた人類が、一人で生きることを避けるための機能のようです。人間が生きていく上での危険を察知し、その危険から離れたり排除したりする機能なのですね。こうして少し客観的に見ると、面倒のようなネガティブな感情と向き合いやすくなります。
 よく『視野を広く持て』と言われます。しかし残念ながら生物としての人類は視野の調整が不自由で、特に視野を広く持つことが苦手のようです。
 たとえば飲酒運転は禁止されていますが、飲酒運転で捕まる人は後を絶ちません。これは、お酒を飲む瞬間の刹那的な快楽に視野が限られており、その後の事故の可能性、そしてその事故に巻き込まれるかもしれない周りの人のことまで視野を広げて考えることができていないためです。(参考– 高橋祥子氏"生命科学的思考")
 生まれた瞬間から視野を広く自由に持てたらとも思いますが、そう簡単にいきません。
 開祖さまはきっと、親孝行、先祖供養、菩薩行と信行に励むことによって、私たちが広い視野で人と調和した生き方ができるように導いてくださったのだとあらためて感謝を深く致します。合掌

2021.9.29
  人生に課題あり 精進あり

 国内の子供たちの7人に1人が貧困に直面しているとの報道があります。実感は薄いかもしれません。世界に目を転じると、人類が誕生してから現在まで飢餓に苦しむ人がいないという状況は、一度もないようです。
 事実、世界の約8億の人々が飢餓に苦しみ、そればかりか約8億の人々の肥満がさまざまな病気を引き起こすという、新たな課題を投げかけています。
 しかし一方で、課題を感じるということは、現状に無頓着なのではなく、これではいけない、少しでも良くなろうと意識が働いている証しでもあります。さらには、より良い"未来を描いて行動を起こす"となります。
 このように、人々がもつ『より良くなろう』という意識と行動に働きかけるのも信仰の大事な役割です。その鍵のひとつが、『どのようになりたいか、"あるべき姿"をハッキリと思い描く力』です。仏教では、滅諦と表現しますね。
 今、世界ではSDGs"持続可能な開発目標"が掲げられ、2030年までに17の項目を達成しようと取り組んでいます。さまざまな課題を克服することで人々が、そして未来の子供たちが末永くより良い人生を送れるようにするものです。
 身近には、貪り- 怒り- 道理を知らないといったことから、家族や職場でのトラブルが起こります。だからこそ、他人に腹を立てるのではなく、これを自らの課題と腹を決めて、あるべき姿をハッキリと描いて精進したいものです。 合掌

2021.10.1
  生きがいの原点"法華経"

 開祖さま、会長先生は、立正佼成会の修行は[親孝行][先祖供養][菩薩行]の三つの行が要諦であると示してくださいました。いずれも『法華経』に説かれ導かれる実践行であり、人と人との出会い交わりの中で培う徳目です。
 親孝行は、両親のご縁のおかげさまで"いのち"を授かったご恩への感謝が先ず浮かびます。同時に、縁起の教えから展開する"因縁果報"に基づけば、因が私であり、私に最もふさわしい両親のご縁を頂戴して誕生したと説かれます。
 このことが腹におちると、私たちは自分の人生のさまざまな課題を自らが"主人公"となって生きて乗り越えていけるようになります。この主体性がまた親孝行の実践につながります。
 先祖供養は、ご先祖さまの安寧を祈り、先祖という根があってこその幹(みき)=私たちであり、子供たちという果実が実るという"いのちの根本への感謝"が込められます。また、本仏のいのちが"久遠"であるという法華経の真髄は、仏の子である私たちの"いのち"も、過去世から現在、未来へとつながる"いのち"であることを示します。つまり、過去のご先祖さまを祈ることは、同時に自らの過去を祈り浄めていく祈りでもあります。『すべて自分』という腹がまえができます。
 諸々の苦は"貪欲"がもととなっていると説かれます。法華経で示される"菩薩行"は、この貪欲を滅するだけでなく、人さまに真の楽を与えるものです。『先ず人さま』というメッセージは、菩薩行を端的に示すものです。
 親孝行、先祖供養、菩薩行を実践する私たちは、親、先祖、他者と自分が対立するものではなく、喜怒哀楽を共にする"一体感 ” を育くみます。この感性が法華経の導く"慈悲心"であります。慈悲心は"生きがい"を自他にもたらす原点であると信じます。法華経を丹念に味わい、実践してまいりましょう。合掌

2021.10.3
  会話に"地層"がある

 会話の"地層"という表現は、昨日の全国教会長オンライン学習会で講師の勝部さんという方が教えてくださいました。
 勝部さんは大阪府豊中市社会福祉協議会の方です。本会豊中教会敷地にある施設を活用し、社会的に孤立し困窮した方々への支援もされている方です。
 会話の"地層"についてこんなお話を分けてくださいました➖例えば、引きこもっている人や公園などで野宿している人に最初に声をかける時、善意の気持ちで「お仕事は見つかりますか?何かお手伝いしましょうか?」とか親切そうな言葉をかけてしまいます。
 でも、その前の段階があり、相手の方の好みの話しや今日は暑いですねなど他愛のない会話が大事だと言うのです。いきなり本質に入らないで、先ず"小さなつながり"が大事なのですね。おそらく"華だより"を読んでくださっている皆さんは身についておられることではあると思います。
 ただ、もう一つの視点で大切にしたいのは、「どんな状況にあっても相手の人を大切に思う気持ち」であり、相手の方は今は"困っている"かも知れないけれど、その痛みの経験が"困っている人を助ける人でもある"という敬いの気持ちです。
 家庭や職場においても、僧伽の手取りにおいてもこうした心がけが大事ですね。
 "正しい会話"からもう一歩の向上を願い"優しく温かい会話"へと磨きをかけてまいりましょう。合掌