教会長の言葉

仏さまの蔵は いつも開かれています


日常の場で三宝に結縁した生活をすると 損得が尊徳になるようですね


令和2年は新型コロナウイルスの感染拡大により、日本はもとより、全世界が翻弄された年でありました。同時に、私たちの生活スタイルと「何を大切にするか」という価値観に大きな変化の波が押し寄せていることを、ほとんどの人々が実感しています。混迷した未曾有の事態に、ともすると心はふさぎ、閉じてしまいかねません。
 こうした中、会長先生は、幾度となく『久遠本仏』のもとでの修行のあり方をご法話くださっています。“久遠”とは、「過去現在未来いつでも、いまこの場所から宇宙の果てまでどこでも誰にでも」あてはまるとも表現できます。本仏は私たちを生かそうとして、慈悲と智慧の蔵を仏法僧の三宝として私たちにいつでもどこでも誰にでも開いてくださっていると、私は受け止めています。一方で、私たちの中には、現象世界に振り回されてしまう「未熟」な私と、仏の子としての「ほんもの」の私が同居しているようです。本仏の慈悲と智慧を生かすには、未熟な私とほんものの私に三法を結縁することが一大事と、私は理解し信じています。

『福の神になった貧乏神』というお話があります……むかしむかし ある村に 働き者だけど とても貧乏な男(未熟な私)が住んでいました。
・この男の家には、貧乏神が住み着いていたのです。
・不思議な計らいで 美人で働き者のお嫁さんをもらい たいそう悦び これまで以上に働きました。
・一方で、昔から天井裏に住み着いていた(や)せ汚れた貧乏神は もうすぐ福の神が来ることになり この家を出ていかねばならぬと 泣き出し震えています。
・夫婦は 貧乏神に「これからも大事にしますので どうかおってくだせえ」とお願いし神棚にあげ 食べ物をお供えしました(ほんものの私)
・除夜の鐘が鳴り始めたころ福の神が来て 貧乏神を追い出してしまおうとします。しかし、夫婦は丁重にお断りし 引き続き貧乏神にお供え物を続けていると‥‥。
・なんと、夫婦に大切にされた貧乏神は いつの間にか福の神になっていたのです。

★むかし話をかみしめて
○私たちにとっては、このお話しに登場する「お嫁さん」を仏・法・僧の「三宝」になぞらえることで三宝を中心とした生活の大切さをより実感できるのではないでしょうか。
○私たちは、ともすると「福の神」が向こうからやってくることを期待しがちです。
 相手を変えることなく、自分が変わる。【縁起の理法】
 それには先(ま))ま(()ず、仏・法・僧の三宝に結縁()(帰依すること)し、貧乏神、すなわち都合の悪い現象であっても大切に敬い供養を続ける。すると、思い通りにならない現象も変わってくる、「福の神」となると教えてくれています。皆さまはどう受け止めますか? 

合掌

令和2年12月吉日〔釈尊成道の月〕

高岡教会長 荒川公男